アルバム『君だけの魔法』レビュー

Note

巡音ルカ、オンステージ

 私達が手にしたアルバムジャケットが、その世界への入り口だった。

 目に飛び込んで来たのは、こちらに背を向け佇む女性が一人。光を真正面から浴び、左の手には有線マイクロフォン。ここは舞台の上。華やかなドレスに赤いヒール、ピンクの髪をアップに纏めた彼女は、上品に、そして堂々と、指の先まで全てを暗闇の観衆へ向けて見せつけている。
 背を向けた彼女の表情は伺い知れないが、その心情は果たして如何なる様であろうか。私の歌を聴け!と言わんばかりの強い瞳で観客を圧倒しているのだろうか。はたまた、全霊を振り絞った末の恍惚の表情を浮かべ、全てを受け入れているのだろうか。

 この舞台上でスポットを浴びている人物が”巡音ルカ”であるのは、本作を手にしている者にとって既に自明であろう。
 そう、ここは巡音ルカのステージ。
 これから私達は、巡音ルカのコンサートの様子を垣間見る事になる。・・・そう思うと、否応なしに心が弾むではないか。
 彼女はどんな歌を観客に届けてくれるのだろうか。そして、彼女が全てを歌いきった時に、今、こちらからは見えないその表情はどの様に変わっているのだろうか。

 様々な期待を胸に、さあ、再生ボタンを押してステージの幕を開けよう。

 

#1 深紅の薔薇にくちづけを

 ホールのざわめきを切り裂くようにドラムの挑発的なビートが響き渡り、それを合図に深紅の緞帳がゆっくりと巻き上がった。まだ薄暗いステージには今日の舞台を支えるバンドメンバーがすでに勢揃いしているのが見える。
 刹那、袖に向けて当てられたスポットの中に、今日の主役である淑女の姿が露わになった。いつもの朗らかな笑顔を携えて揚々と舞台中央に躍り出ながら、オーディエンスを歓迎するように右へ左へ手を振り応える。
 トランペットが唸りを上げ、リズム部隊が前へ前へと聴衆の気持ちを後押しする。
 イントロが終わりを迎える間際にオーディエンスに背を向け、そして、振り向き様に歌い始めた彼女の表情は、妖艶な女性のそれに変わっていた。

 1曲目、Sing,Sing,Singを彷彿とさせるというか、全くもって狙い撃ちといった趣である。
 『髪をなびかせ 歩く姿まるでサテンドール』と歌い始めですぐに解るように、これはセクシーでイイ女の歌だ。JAZZでサテンドールと来たらデューク・エリントンとなりそうだが、そうは行かない。もっと華々しく、挑戦的で、その名の通りセクシーでゴージャスだ。
 何はともあれ、出だしの意外さや期待感によってガッチリと心を掴んで離さない完ぺきなイントロ、そしてビッグバンドの圧倒的な迫力もあり、トップナンバーとして申し分ない勢いを感じる。

 

#2 君だけの魔法

 勢いもそのままに、表情はまた一変。彼女が持つ本来の明るさ、優しさと、慈愛の心があふれ出す。
 一堂に会した喜びを感謝の言葉に変え、柔らかい笑顔がそれまでの緊張を解きほぐす。そしてステージの端から端、客席の前から奥まで、余さず気持ちを伝えるように、未来と希望の詩を歌い始めた。
 彼女は開幕から温存することなく、魂を声に乗せるように歌う。そんな彼女が「どんな時も信じる」ことが大切だと私たちに言葉を届けようと身を乗り出して来る。オーディエンスもまた一歩ステージへと心を引き寄せられ、最上段最後列の客席でさえも、まるで視力が上がったかのようにその姿をハッキリと捉えられるようになった程である。
 最初のサビが終わる頃には、早くも彼女の肌に浮き上がった雫の最初の一滴が宙に舞い、スポットライトを反射して煌めいた。

 2曲目は、アルバムのタイトルナンバーだ。その肩書を得るに相応しい、強く清廉なメッセージを持つ曲である。
 歌詞の上では前曲との振れ幅が大きく、より一層その実直さが心に染み入るではないか。
 ソングライターを信じてその言葉を受け入れる事ができれば、希望が胸から込み上げる感覚を、実際に体験することができるはずだ。

 

#3 北山ムーンライト

 観客の心を掴んで揺さぶり、あるいは振り回し続けていた彼女であるが、ここで一息とばかり着席を促す。合わせるようにバンドの音も深く静かな物に変化する。
 藍色に変わったステージに浮かぶ月。熱が溶け掛けた頃の、あの川辺の匂いを思い出す。耳に残った雑踏の余韻。
 ステージでノスタルジックに語られる恋人達にシンクロするかのように、私と彼女の間、客席とステージの距離が、近く、遠く、もどかしく、そして愛おしい。

 それが夏目漱石のせいなのか、グレン・ミラーのせいなのかは知らないが、古今東西、月の詩には愛の意味が込められる。ルーツが何かは知らないが、確かに、遠く、儚く、美しい。
 3曲目は秋の歌、恋人の歌、そして京都を舞台にした歌である。
 日本で最も美意識が強いと言っても過言ではない土地を引き合いにして、全く後れを取らない美しい心情、情景、そして我々の経験をも記憶の奥底から引き出す描写の魔法は、恋人と別れた後の帰り道のように、心を温かくしてくれるだろう。

 

#4 Strayhorn’s Sentimental Rag

 想い出から目が覚めても、まだ頭は彼女の事でいっぱいだ。言葉が、リズムが、その想いを冷めさせる事など決して許さない。
 大きな歩幅でステージの右から左へ、左から右へ。彼女の元気一杯な姿を見ていると、無意識にユラユラとそのリズムに身を任せるままになる。
 もうすっかり彼女に夢中になった私達は、世界を巻き込んで朝まで続く魅惑のパーティから逃げ出せない。

 誰しもがアッと気付く、Take the “A” trainへのオマージュ。そんな大胆な演出でもすんなりと受け入れられるのがJazzという音楽の素晴らしい所。タイトルからも解る通り、これはビリー・ストレイホーンへのリスペクト曲であろう。
 しかしそんな小ネタもあった上で、それすらも自分の楽曲に取り入れてしまえる懐の深さもまた、Chiquewaの編曲の技量の成せる技だ。
 

#5 Catch me

 シックなピアノのイントロが終わり、4秒。一斉にワッと歓声が上がった。ファンなら誰もが知っているあの曲のあのメロディーだ。
 ずっと無表情で縁の下を支えていたドラマーも、その反応を受けて表情が綻ぶ。もちろん何が起きても動じず、フォーンセクションとのグルーヴも完璧に熟しているが、その変化を目聡く見つけたお茶目な歌姫は、出番が始まるまで茶化したように目くばせを送る。そんな二人の仕草を見て、私達もつい釣られて笑顔を零してしまうのだった。
 バックバンド一人一人に寄り添いながら歌う彼女は、オーディエンスもさらに煽り立てて、同じ時間を共有する喜びを、感情を、言葉に織り交ぜる。
 もっと、ずっとこの時間が続けばいいのにと、私たちは思わずにいられなかった。

 メロディーを聴き記憶が高速検索され、答えに辿り着いた時の快感。ポピュラーミュージックの醍醐味はこれなのではないかと思う。
 Catch meはSasakamaStudioのメンバー、ぱんだっちの代表曲だ。
 これは個人的な見解だが、ぱんだっちは稀代のソングライターに他ならず、筆者はずっとそう確信して疑わないでいる。その証拠に、ぱんだっちの生み出すメロディーと詩は誰の心にも受け止めやすく、そして、よく染みる。
 そんな名曲が、ジャズオーケストラとして生まれ変わりまた巡り合えたのだ。これはファンにとっては得難い喜びに他ならない。

 

#6 恋するモダンガール

 私達に向けられた優しい音楽はまだまだ終わらない。
 まるで女優のように、ステージ上で様々な表情を見せてくれる彼女。「端ないわ」と斜に構えた姿もまた愛らしい。身振り手振りにその歌いぶり。それらは素晴らしいオーケストラに支えられて、よりいっそう魅力が引き立てられるのであった。

 言葉は時代によって形を変える。この曲は「モダンガール」という言葉が示唆するとおり、大正昭和の雰囲気を令和の現在に再現しているのだが、それは決して大げさにはならず適度なアクセントとして、現代の恋物語に彩りを付けるに留めているようだ。
 また、この曲はビッグバンドという特徴的な本アルバムの楽器構成において、サビの美しさが際立っている物の一つであり、そこは決して見逃してはいけないポイントだ。美しい詩を引き立てる音楽の力を堪能できるので心して聴いてほしい。

 

#7 Sing For You

 その歌は誰のための歌なのだろうか。彼女は何のためにこの舞台に上がっているのだろうか。この曲はその答えを端的に示している。
 ”全ての悲しみ、全ての喜び、全ての思いを歌に乗せてSing For You”
 歌う事は生きる事。歌う事は走り続ける事。歌う事は与える事。歌う事は繋がる事。歌う事は、生き続ける事と同義。彼女の歌は愛なのだ。私達への。
 大団円への予感を感じさせながら、彼女の歌は、まだ終わらない。

 SasakamaStudioというチームが作る音楽の、編曲の旨みを感じる事ができる作品だ。そして、それに乗せるに相応しいメッセージ性の強い詩は、アルバム全体を通して感じられるポジティブな感情の集約にも思える。

#8 ハッピィデイズ

 歌が始まってはたと気づいた。あぁ、今日のこの素晴らしい時間はこの曲で終わってしまうのだなと。

 まだ、まだ、ずっとこの夢の中にいたい。皆がそう思いながら、幕は静かに降ろされた。
 そして、最後の瞬間に、彼女が見せてくれた表情を私達はずっと忘れる事が出来ないだろう。

 今日の事を覚えていれば、ずっと、いつだって、私達は幸せになれる。
 記憶と感情を呼び起こしてくれる音楽の力を、彼女は私達に教えてくれたのだ。

 作者がこのタイトルをラストナンバーに選んだのは、言うまでも無い。リスナーへの祝福が込められているのだ。

 ここまで聴いてきて解ったとおり、本アルバムは歌手の様々な表情の変化が楽しめる他に、一貫して精神的な平和が語られている事に気づいておきたい。
 これは筆者の主観であるが、chiquewaは巡音ルカに精神的な苦悩を背負わせようとしている嫌いがあった。しかし、本作においてはほとんどその影は見えず(あえて言うなら冒頭曲はその影響が残っている)、未来へ向けた明るい展望を感じ取る事が出来るだろう。

 chiquewaがアルバム作品に対してどのような”選択”を行ったか。そこは注目すべきポイントだろう。
 筆者は、今回のアルバムの”選択”を大いに歓迎すると共に、またこれから新しく生まれる”変化”も楽しみにしている。

コメント

  1. 紹介文のひとつひとつに作品への愛が詰まった素敵なレビューだなと思いました。じっくりと曲を聴きながら読ませていただきました。ありがとうございます。

    • コメントありがとうございます。
      曲を聴く切っ掛けになれた事が何より嬉しいです。

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